史跡・名勝・天然記念物(国指定)と自然公園

ただし現在でも町村制があった頃の名残で、「町制」「村制」という表現は使われている。行政の基本的な制度の管理及び運営を通じた行政の総合的かつ効率的な実施の確保、地方自治の本旨の実現及び民主政治の基盤の確立、自立的な地域社会の形成、国と地方公共団体及び地方公共団体相互間の連絡協調、情報の電磁的方式による適正かつ円滑な流通の確保及び増進、電波の公平かつ能率的な利用の確保及び増進、郵便事業の適正かつ確実な実施の確保等を任務とする。国家行政組織法別表第1では、総務省が各省の筆頭に掲げられており、閣僚名簿においても原則として総務大臣は内閣総理大臣の次に列せられる。



戦国時代にも国内の争乱や隣国との抗争は続いたが、武田信虎は国中地方の有力国人勢力や郡内領主の小山田氏など従属させ、抗争を続けていた駿河の今川氏や相模の後北条氏とも和睦する。また、新たに甲府を拠点とした城下町整備を進め、国内統一を完成した。戦国期には武田氏による一円支配が行われているが、郡内の小山田氏や河内地方を領する穴山氏などの国衆はそれぞれ独自の支配を行っている。武田晴信は信虎後期の拡大志向を継承し、甲相駿三国同盟を背景に信濃侵攻を行い越後の上杉謙信と川中島合戦を繰り広げ、後期には西上野侵攻や今川領国への侵攻を行い最大領国を達成し、三河・遠江への侵攻も行い織田・徳川勢力と対抗した。また、信玄期に確立した大名権力により独自の領国支配が展開され、検地の実施や棟別諸役の整備、躑躅ヶ崎館を中心とする甲府の城下町整備、黒川金山や湯之奥金山など近世まで稼働した甲州金山の開発、信玄堤の築造など治水事業が行われている。勝頼期には長篠の戦いによる武田領国の動揺を招き、天正10年3月、織田信長の武田攻めで武田氏は滅亡した。武田遺領は織田家家臣に分配され、甲斐は河尻秀隆の領土となった。同年6月に信長が横死し、空白地帯となった武田遺領を巡って徳川氏と後北条氏による天正壬午の乱が起こり、甲斐国は徳川家康の領土となった。家康は家臣の平岩親吉に命じて甲府城築城に着手し、以来江戸時代に至るまで甲斐の支配拠点となる。



しかし、1876年4月18日には足柄県が分割され、相模国部分は神奈川県に編入され、伊豆国部分は静岡県に編入された。そして、同年8月21日になると、浜松県が廃止されて静岡県に編入された。1878年には、伊豆諸島が東京府に編入された。このように、伊豆国、駿河国、遠江国の3国が、1876年に行われた県の合併によって、現在の静岡県となった。静岡県庁では、「住んでよし、働いてよし、訪れてよし」の「富国有徳の日本の理想郷」を創るための施策に取り組んでいる。「富国有徳」は、前知事石川嘉延の県政キャッチコピー「富国有徳――しずおかの挑戦」にも現れるが、これは現知事川勝平太の著した『富国有徳論』 の思想に賛同したもの。



2010年現在、都道府県別人口は第10位である。また静岡市と浜松市の2つの政令指定都市、富士市と沼津の2つの特例市を有する。令制国の伊豆国、駿河国、遠江国の3国に相当する。このため、東西に広大な県となっており、東西で住民の意識が違ってくる。このように地域によって差異は認められるものの、県民に根付く県のシンボルとして富士山や伊豆半島、駿河湾、御前崎といったものが挙げられ、県旗もそれらに基づいてデザインされている。



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