富士吉田市と交流都市
武士の王国から日本の中心地へと、関東地方は変遷した。関東地方に人が住みはじめたのは旧石器時代であった。群馬県の岩宿遺跡からは、関東ローム層から旧石器時代の物とされるナイフ形石器が発見されているが、関東ローム層の酸性土壌のために、人骨などは見つかっていない。縄文時代の関東地方は温暖な環境に恵まれ、縄文人は関東各地に大型集落を営んだ。縄文時代の南関東は日本列島で最も人口密度の高い地域であったと推測されている。縄文海進の時期には、現在の茨城県中南部の低地、千葉県北部の下総台地以外の地域、東京23区の東部、埼玉県の東南部は海であった。内陸に入り込んだ遠浅の海はよい漁場となり、現在海岸から離れている地域にも加曽利貝塚を筆頭に巨大貝塚が形成された。
なお、道路標識等の地名看板は「南」がローマ字表記のMinami、「アルプス」が英語表記のAlpsで、ローマ字と英語を組み合わせた表記Minami-Alps Cityである。山梨県ローカルの報道では略して「南ア市」と表記する場合もある。古代には官牧があり、甲斐源氏の勢力基盤にもなった。中世には庄園化し、巨麻郡加賀美庄に拠った加賀美遠光や、その子小笠原長清らの一族が居を構えた源氏ゆかりの地である。遠光は源頼朝の重臣として仕え、その館跡は加賀美の法善寺、長清の館跡は市立小笠原小学校の敷地となっている。後に奥州の大名となる南部氏の祖南部光行も遠光の子であるほか、武田信虎の妻で武田信玄の生母・大井夫人も南アルプス市出身である。市南部の荊沢宿は、江戸時代から始まった富士川舟運の陸路の宿場町として旅人で賑わった。市域を南北に縦断していた駿信往還は現在の国道52号線となり、街道沿いには荊沢のほか小笠原・倉庫町などの商店街が栄えたほか、毎年2月には江戸時代の物々交換に端を発した「十日市」が現在も盛大に行われるなど、活発な流通が行われた往時の面影を残している。
平安時代には、親王任国には、常陸国、上総国、上野国が親王任国に設定された。11世紀頃に成立した『更級日記』などに、松戸、幕張、利根川、武蔵野等の情景が描かれている。10世紀には親王任国が半制度化し、下総国、常陸国、上野国には桓武系平氏を中心に平家武士が増加、その一人である平将門は自ら天皇と称し、関東の独立を目指して蜂起すると、下野国押領使で藤原北家魚名流・藤原秀郷は朝廷の意向をもってこれを討伐した。概ね北関東以北は藤原北家や清和源氏を出自とする領主、南関東は平氏を出自とする領主が支配した。この頃、関東は「あづま」と呼ばれ、関東の武将たちは、その勇猛さから「あづまえびす」と侮蔑的に呼ばれた。将門の独立志向が、その後の関東の武士政権への道を開いたことを、網野善彦は指摘している。源頼朝が鎌倉幕府を樹立する頃には、関東各地で開拓が進み、中小武士団が割拠した。北関東は藤原北家流諸氏や清和源氏流諸氏、南関東は桓武平氏流諸氏や武蔵七党が領有した。南北朝時代には、足利幕府の出仕機関である鎌倉府が同じく鎌倉に置かれ、鎌倉公方を関東管領が補佐、さらに関東八屋形が各領土内での実権を有した。事実上、東国武家政権の伝統を引き、東日本を広く管轄した。
室町時代には幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府における鎌倉公方と関東管領の対立など関東地方の騒乱の影響を受け、上杉禅秀の乱では守護武田氏が乱に荷担し追討を受け甲斐は守護不在状況となり、反守護勢力の逸見氏が活動し国内は混乱した。室町後期には幕府の意向で武田氏の守護復帰のため入甲した跡部氏が台頭するが、守護武田信昌は跡部氏を排斥し、国内統一を勧めた。戦国時代にも国内の争乱や隣国との抗争は続いたが、武田信虎は国中地方の有力国人勢力や郡内領主の小山田氏など従属させ、抗争を続けていた駿河の今川氏や相模の後北条氏とも和睦する。また、新たに甲府を拠点とした城下町整備を進め、国内統一を完成した。戦国期には武田氏による一円支配が行われているが、郡内の小山田氏や河内地方を領する穴山氏などの国衆はそれぞれ独自の支配を行っている。武田晴信は信虎後期の拡大志向を継承し、甲相駿三国同盟を背景に信濃侵攻を行い越後の上杉謙信と川中島合戦を繰り広げ、後期には西上野侵攻や今川領国への侵攻を行い最大領国を達成し、三河・遠江への侵攻も行い織田・徳川勢力と対抗した。また、信玄期に確立した大名権力により独自の領国支配が展開され、検地の実施や棟別諸役の整備、躑躅ヶ崎館を中心とする甲府の城下町整備、黒川金山や湯之奥金山など近世まで稼働した甲州金山の開発、信玄堤の築造など治水事業が行われている。