ICなどと本社や工場(支社)をおく企業
文化面では国学を創始した確立した荷田春満の弟子に浜松諏訪神社大祝杉浦国頭がおり、国頭は江戸において春満に学び、春満の姪を妻に迎え浜松で私塾を開き多くの門弟を育てた。そのなかには伊庭村の賀茂明神神職の賀茂真淵がおり、真淵は春満に国学の学問的手法を確立し、地元出身者を含む多くの門弟を育て、豆駿遠三国では春満・真淵との関わりから遠州国学が発達する。幕末には嘉永6年にアメリカ艦隊司令長官ペリーが日本との通商を求めて来航し、翌嘉永7年1月には下田・函館両港が開港する。下田にはアメリカ領事タウンゼント・ハリスが駐在し、安政5年に日米修好通商条約が締結されるまで、玉泉寺はアメリカ総領事館として機能した。また、嘉永6年にはロシアのプチャーチン艦隊も日本との通商を求めて来航し、同年11月1日には下田において幕府側全権と考証を行っている。11月3日には安政の大地震が発生しプチャーチン艦隊のディアナ号は沈没し、日本側では韮山代官江川英龍が主導し、戸田港において代船の造船を行っている。江戸幕府が倒されて明治維新が起こると、1868年5月には、駿河国の天領・沼津藩・田中藩・小島藩・交代寄合の榊原家の久能陣屋、諸旗本領、遠江国の相良藩・横須賀藩・掛川藩・浜松藩・交代寄合の近藤家の気賀陣屋、諸旗本領が合併されて、静岡藩が設置され、徳川将軍家の徳川慶喜が入った。同年6月、伊豆国の地域に韮山県が成立した。同年9月、旧堀江陣屋が堀江藩に昇格した。そして、1869年には、駿府は静岡に改名された。
連合国軍最高司令官総司令部による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。1951年の知事選では民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。1967年に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なった。文化事業では、1978年にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館を創設。
工業はかつて製紙業が盛んであったが、近年は輸送用機器・化学工業・医療用機器などを中心としたものとなっている。富士宮市の工業の推移は増加傾向にあり、また工業団地が点在しており現在着工中の工業団地も存在する。製造品出荷額等は2007年度で7933億7622万円となっている。豊富なわきを利用した水に関係する産業が中心となっている。
当市の主要道路は、甲府より至る甲州街道が韮崎を要に3つに分岐して、各々が並行する形で市内を貫いている。1つは釜無川に沿う甲州街道、2つ目は八ヶ岳南麓の台地である七里岩上を走る逸見路および、信州往還、3つ目は塩川に沿う佐久甲州街道である。甲斐市は、山梨県北西部の市。人口は7万人を超え、県内では甲府市に次いで第2位であり、人口密度は県内で第1位である。2004年に旧竜王町、旧敷島町、旧双葉町が合併し誕生した。市章は、旧三町を表現する三枚の葉で頭文字の「K」を形作り、ハートの造形を図案化したもの。甲府盆地の中西部からやや北寄りに位置。旧町名でいう竜王町、敷島町、双葉町から構成され、南北に伸びる細長い形状。旧敷島町にあたる北部は森林資源の豊富な山岳や丘陵地帯。中南部は釜無川の左岸に展開する平野部で、市街地が形成されている。